★「ゴジラGOZDILLA 伝説」(ポップアップ)の面白情報箱②
品川の八ツ山橋あたりに上陸した初代ゴジラは、国会議事堂やテレビ塔を破壊した。破壊されたテレビ塔を東京タワーだと思っている人もいるようだが、東京タワーが完成したのは、1958年(昭和33年)で、1954(昭和29年)の初代ゴジラの映画上映時には、まだ存在していない。破壊されたのは、日本放送網の鉄塔だと思われる。
1954年(昭和29年)、ゴジラの映画が上映されたこの年から始まった好景気を日本の国が始まって以来の好景気として神武景気と命名された。ゴジラと共にやって来た高度経済成長で、1974年(昭和49年)の石油ショックで景気後退が起きるまでの20年間は、日本が大きく発展していった時代で、アメリカにつぐ自由主義経済第2位の経済力を持つことになった。ゴジラのお陰?
★ゴジラと共にやって来た国防意識?
1954年(昭和29年)は、戦後の国防を考えるうえで大きな転機となった年。平和と秩序を維持し、国民の人名と財産を保護するために防衛二法(防衛庁設置法、自衛隊法)が公布、施行された。ゴジラが国防意識をもたらした?
★特撮の神様「円谷英二」はどんな人?
1901年(明治34年)生まれ。福島県須賀川市出身。本名は、圓谷英一(つむらや えいいち)。特撮(特殊撮影)技術の第一人者で、映画やテレビ業界に多大な功績を残したことから「特撮の神様」と呼ばれている。円谷のもとには、若く才能のある人材が集まり、作品制作を通して技術とその後の特撮映像の発展に貢献した。
★「円谷英二」は、怪獣が血を流すシーンは撮らなかった
「残酷シーンは、子供によくない」と、怪獣が血を流すシーンを一切撮らなかった。「子どもに夢を」という思想を底流に持って作品に取り組んだ。
★映画「ゴジラ」誕生の秘話
円谷英二は、第2次世界大戦中、戦争をテーマに映画を作らざるを得なかったが、戦争が終わったことで、みんなに喜んでもらえる映画が創りたいと考え、1948年に「円谷特殊技術研究所」を設立して映画作りに専念することにした。円谷は、1933年、アメリカで大ヒットした「キングコング」見て、衝撃を受けていた。自分も恐竜をテーマに映画を作りたいと考えていた1954年にビキニ諸島で日本の漁船、第五福竜丸がアメリカの水爆実験の犠牲に乗組員がなった事件に遭遇した。このことをヒントに水爆で恐竜が目覚めたという映画を制作することで、核実験の恐ろしさを表したいと考えた。こうして、日本初の怪獣映画「ゴジラ」が誕生した。初代ゴジラの身長は、50メートルで体重は、2トン。30年後に制作されたゴジラは、身長80メ-トルで体重5トンにスケールアップされた。これは、個体の違いか?「ゴジラ」は、アメリカの「キングコング」と並び、世界でもっとも有名な怪獣だ。
★「ゴジラ」のネーミングはどこから?
「ゴジラ」という名前は、陸の「ゴリラ」と海の「クジラ」をもとに作られた造語。初代「ゴジラ」が制作されたころ、東宝に「グジラ」というニックネームの社員がいたようだ。ゴジラとグジラをもじったもので、ゴジラのネーミング制作に影響を与えたようだ。ホント?
★「ゴジラ」は、着ぐるみに人が入って演じていた
1964年、東宝が第1作目の特撮怪獣映画「ゴジラ」を公開してから始まるシリーズ作品を「ゴジラ映画」と呼んでいる。ゴジラ映画では、演技者が着ぐるみに入って演じる手法をとって撮影をしたが、それ以前の映画1933年、アメリカで制作された「キングコング」は、一コマ一コマ、キングコングを動かしながらコマ撮りをしてつなげていく手法をとっていた。コマ撮りで映画を完成させるには、7年程度の歳月が必要となる。早く完成させるためには、着ぐるみで撮影する方法しかなかった。結果、これが臨場感のある画面を作り出した。その後、日本の特撮の主流となり、多くの作品を制作することになった。
★初代ゴジラの造形と重さは?
ティラノザウルスの胴体にステゴザウルスの背中にあるトゲを付けたプロポーションに、ワニの体表に似た細長いウロコをもって粘土模型が創られた。着ぐるみの自重だけで63キロもあった。
★ゴジラの身長は、作品によって違っている?
最初の作品(1954年)での身長設定は、50メートルだったが、1984年には、周りのビルの高層化に合わせて80メートルになった。その後、1991年には100メートルになり、2016年の「シン・ゴジラ」では、118,5メートルと周りの街並みに合わせて巨大化していった。
★初代「ゴジラ」の中で演じた役者はだれ?
初代ゴジラの着ぐるみに入って演じたのは、中島春雄さんという屈強な肉体を持った役者。世界で初めて着ぐるみを着て演じていたが、人間が入っていることを感じさせず、人間的な動きを排除するために、無駄のない動作を心がけていた。さらに、上野動物園に1週間通って、動物たちの動きを観察した。一番参考になったのは、象だったようで。すり足で、足裏を見せず、重量感があったとのこと。ゴジラのゆっくりとした動きや、すり足のような足の運びは日本伝統芸の「能」の動きを参考にしている。また、ゆっくりとした動きを再現するために、ゴジラの足裏に鉄板の下駄が入れてあって足が上がりにくく工夫を加えていた。ゴジラを演じた中村さんは、「のどの部分に小さな穴があって、そこから外を見て、息を吸う。暑いし、重いし、苦しいしい密閉空間だった」と話をしていた。
★着ぐるみの「ゴジラ」にリアル感を出すのに大事な役割を果たしたのがミニチュアの魔術
ゴジラが破壊する街並みにリアル感があることが大事。当時の東京をそっくりミニチュアで再現するために、写真を撮って図面を引いて25分の1にスケールで作っている。制作者には、宮大工というスペシャリストも参加していた。さらに、リアル感を出す決め手は、空気の層を表現するために煙をたくことで遠くをぼかし、遠近感を出した。
★初代「ゴジラ」が破壊した建造物は何がある?
海から上陸して最初に破壊したのは、品川駅、八ツ山橋の鉄橋。そのあと都心に向けて銀座松屋を炎上させ、銀座和光ビルの時計台、国会議事堂、NHKの電波塔などを破壊し、隅田川の勝鬨橋を掴んで放り投げる。破壊することを銀座松屋と銀座和光へ許可を取っていなかったので、クレームがついたという伝説がある。
★ゴジラの鳴き声は、どうやって作られたの?
存在しない架空の怪獣の声を作るためには、色々なアイディアや工夫が必要だ。最終的に採用されたのは、作曲家の伊福部昭のアイディアによるコントラバスに滑り止めの松ヤニを塗り、皮手袋でこすった音が元に、音を重ねるなど加工して完成した。
★ゴジラ映画は、アイディアの宝庫だった
①ゴジラが吐く熱線で鉄塔が溶けてグニャグニャになる場面を撮影するのに、ミニチュアの鉄塔を「ロウ」でつくりグニャグニャ感を再現した
②巨大なゴジラと役者が演じる場面は、あらかじめ撮影しておいたゴジラの大きな顔を、スクリーンの後ろから映して、その前で役者が演技をする手法「スクリーン・プロセス」を活用した
③爆風でビルが壊れていく場面再現するために、風で簡単に飛んでいく「ウエハース」でミニチュアのビルを作って、強い風を送って粉々になっていく様子を再現した
④ビルが火災で燃え上がる場面では、「たどん(木炭の粉を固め乾燥させた燃料)」でビルを作り、燃え上がる場面を再現した
★「ゴジラ」のロゴの特徴は?
この飛び出す絵本(作品)の表紙で見て取れるが、ゴジラのタイトルロゴには、特徴がある。それは、「ゴ」や「ラ」の右上の角の尖っているところがカットされて、角が取れている。
1954年11月3日、ゴジラシリーズの第1作「ゴジラ」が日本で公開された。監督は本多猪四郎、特殊技術を円谷英二、脚本を村田武雄、音楽を伊福部昭が担当。日本での観客動員数は、961万人の大ヒットとなった。当時の日本の人口は、8800万人だったから、国民の11%が観たことになる。なお、「ゴジラ」の第1作が公開された11月3日は、「ゴジラの日」に制定された。ちなみに11月3日は、「手塚治虫」の誕生日でもある。
★ゴジラ映画は、海外でも大人気
「スターウォーズ」のルーカス監督や「ET」のスピルバーグ監督を夢中にさせた。スティーブ・ジョブスも、幼いころに「ゴジラ」で体験した恐怖感を再現したいという思いが「ジェラシック・パーク」につながったと話をしている。
1956年、アメリカで公開された「ゴジラ」は、キング・オブ・モンスターの称号を得た。
★「ゴジラ」の漫画版は、映画上映に合わせて作られていた?
「ゴジラ」の映画公開は、1954年。この年に、月刊「おもしろブック」誌上で絵物語「大長編映画物語 ゴジラ」が掲載されている。絵物語は、紙芝居と同じような形式で絵をもとに物語をつづっていくもの。作画は、ゴジラのキャラクターデザインにも関わっていた阿部和男が担当し、原作は香山滋。
翌年の1955年には、「少年クラブ」に、香山滋の原作にギャグマンガ家の杉浦茂が「ゴジラ」を発表した。
★「ゴジラ」は新宿区民?
2015年に新宿区で発表された「歌舞伎町ルネサンス」。誰もが安心して楽しめる「エンターテイメントシティ歌舞伎町」の実現に向けた取り組みが始まった。その一環として新宿東宝ビルに、実物大のゴジラの首から上の頭部が設置された。このことを受けて新宿区長は、ゴジラに特別住民票を交付し、新宿観光特使に任命した。住所は、東宝ビルの所在地らしい。