飛び出す絵本「あしたのジョー」Part.9

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★「あしたのジョー」の原作漫画

  ・1968年~1973年 「週刊少年マガジン」(講談社)で連載

あしたのジョー」が「少年マガジン」で掲載が始まった1968年(昭和43年)は、昭和元禄と言われていた。太平ムードのなか、ピッピー、フーテン、サイケデリックなどの風俗が登場する。一方、学生運動が全国の大学で発生した年でもある。特に東大の安田講堂を学生が占にし、卒業式が中止になったしまった。

 当時の学生たちを表す言葉として「右手にジャーナル、左手にマガジン」というのがあった。ジャーナルとは「朝日ジャーナル」でマガジンとは「少年マガジン」のこと。

少年マガジン」は、1970年新年号で150万部を突破した。この部数の伸びには、「あしたのジョー」と「巨人の星」との二つの漫画の掲載が大きな力になった。原作者は、どちらも梶原一騎であったが、一つの雑誌の人気漫画の原作者が同じでは、まずということで,「あしたのジョー」の原作のほうは、高森朝雄という名前を使った。

★「あしたのジョー」の著者

原作は、高森朝雄、作画は、ちばてつやが担当した。

原作者の高森朝雄とは、梶原一騎のことで同一人物。梶原一騎は、あしたのジョーの連載が始まるときに、すでに少年マガジン誌で「巨人の星」を連載していて大変な人気を博していた。このため、同じ少年漫画週刊誌に一人の原作者が二つの作品を連載することを避けたいという思いがあって、別の名前「高森朝雄」を使ったのではないと考えられる。

作画を担当したちばてつやも「ハリスの旋風」などで売れっ子漫画家だった。

<原作者 高森朝雄

 高森朝雄は、「梶原一騎」の別名で、本名は高森朝樹。この本名をアレンジして高森朝雄という名前が生み出されたようだ。

 1936(昭和11)年生まれ。出身は不明。1987(昭和62)年に50歳という若さで亡くなった。

梶原一騎は、漫画原作者として1966(昭和41)年に漫画家の川崎のぼると組んで「巨人の星」を「週刊少年マガジン」誌上で連載し、大変な人気作品となった。梶原作品は、世をすねた男がスポーツをテーマにストイックに挑戦していく姿を表現するものが多い。これは、彼自身が波乱万丈の人生を送ってきたことと無縁ではない。また、生い立ちにつては、わからない点が多い。

山川惣治の名作絵物語ノックアウトQ」のフアンだった梶原一騎は、本格的なボクシング劇画の原作をモノにしたいと考えていた。そこに、少年マガジンの編集長からちばてつやとのコンビでボクシング漫画の話が舞い込み「あしたのジョー」が生まれた。

主人公の矢吹丈のキャラクターは、模範少年のカガミである星飛雄馬が主人公の「巨人の星」と同じ少年マガジンの誌上であったので、正反対にしてやろうと決めたようだ。

 代表作品としては、「あしたのジョー」「巨人の星」以外に「タイガーマスク」「空手バカ一代」「侍ジャイアンツ」など多くのヒット作品がる。

<作画 ちばてつや

ちばてつやは、1939(昭和14)年生まれで東京都出身。

1956(昭和31)年に高校生だった17歳で漫画家としてデビューしている。当時の漫画家にとって代表的な発表の場になっていた貸本で初めての作品をリリースした。その後、高校生漫画家として作品を発表し続けた。50年以上の漫画家人生を送っている巨匠である。

デビュー当時は、少女雑誌に作品を発表していた。しかし、出版社とのトラブルで少年雑誌に活躍の場を移した。このことが飛躍のきっかけとなり「ちかいの魔球」「魚屋チャンピオン」「紫電改のタカ」などのヒット作品を発表した。

 1965(昭和40)年、週刊少年マガジンに「ハリスの旋風」の連載を始めテレビアニメにもデビューすることになった。その後、「あしたのジョー」では、映画化まで果たしたのである。

 あしたのジョーで主人公矢吹丈のライバルの力石徹を描くときに、大男のイメージがあったので、そのように描いたところジョーと同じ3階級下のバンタム級で戦わなければならないために、過酷な減量をさせなければならなくなった。しかし、このことが力石の死というドラマチックな漫画を生むことになった。

 また、「あしたのジョー」の作画を担当したちばてつやにとって、それまでの「ハリスの旋風」などとは、明らかに違ったドラマチックな作風に昇華した。

おれは鉄平」「のたり松太郎」「あした天気になれ」など次々と作品を発表する息の長い漫画家である。

 「キャプテン」という大ヒット漫画を発表したちばあきおは、実の弟である。

★この本に登場する人物の紹介

●ジョー(矢吹 丈)

 この漫画の主人公。生まれてからずーっと施設で孤独な少年期を過ごしていた。赤いハンチングとベージュのコートがジョーのお決まりのファッションだ。

両親とも行方不明で、養護施設には落ち着こうとせずに、不遇な生い立ちから不良少年のレッテルを貼られて、やけっぱちな生活を送って少年鑑別所にも送られたが、丹下段平と出あうことで人生が変わった。

 ボクシングをとおして苦しい練習と厳しい減量、そして打ち合いを得意とする試合をこなすことでボクシングセンスを磨き、人間的にも成長を続けていく。東洋バンタム級チャンピオンに上りつめたが、ジョーの最大のライバル力石徹との試合では、壮絶な打ち合いとなりトリプルクロスで勝利を果たした。過激な減量の影響もあり負けた力石は、試合後息を引き取ることになった。

また、ノーガード戦法で戦い続けるジョーも、パンチドランカーになって満身創痍で世界チャンピオンホセ・メンドーサとの試合にのぞむが判定で負けてしまう。コーナーの椅子に腰をかけたジョーは、人生に燃え尽きたように真っ白な姿で、ほほえみを浮かべている。

●丹下会長(丹下段平

 「丹下拳闘クラブ」のオーナー。「あしたのジョー」のタイトルを決めたのは丹下段平だ。鑑別所にいた矢吹丈丹下は、「あしたのために」というボクサー養成の手紙を送り続けて強いボクサーへの第一歩を踏み出させたのだ。ジョーというボクサーの生み親であるとともに育ての親でもあるのだ。

 丹下段平は、ひと目見ただけで忘れられない強烈な個性を持っている。黒い眼帯に出っ歯。顔に無数の傷があり、腹巻に杖。プロボクサーとして歴戦の勇士であったが、日本タイトルに挑戦するときに左目を負傷したため引退した。やることなすことすべてうまくゆかず、酒におぼれる生活を送っていた。そこにあらわれたのがジョーである。ジョーの素質にほれ込んだ丹下は、「あしたのために」という書き出しでボクサーになるための養成講座をハガキで送り始めた。プロボクサーになったジョー東洋太平洋チャンピオンに育てた。

●紀子さん(林食品店の娘)

 丹下拳闘クラブの近くにある林食料品店の看板娘。名前は林紀子。「紀ちゃん

と呼ばれ、明るく気立てのよい女性である。プロボクサーを引退したマンモス西

結婚し夫婦で林食料品店を切り盛りしていく。

マンモス西

矢吹丈とは、丹下拳闘クラブの同門。本名は西寛一ジョー少年鑑別所に入ったとき部屋のボスが西であった。ボクシングに打ち込むうちに人間的にも大きく成長してきた。ボクシングの練習の合間、アルバイトとして林食料品店で働き始め、引退後は林食料品店に就職し一人娘の紀子と結婚することになる。

●みせのしゅじん(店の主人)林敬七

 林食料品店の主人と呼ばれているのは、林敬七さん。紀子の父親である。少年院にい

矢吹丈マンモス西を店で雇った心やさしい人である。一人娘の紀子と結婚したマン

モス西とは、義理の親子となった。

●サチ

ジョ―の周りで生活するドヤ街の子供のなかで唯一の女の子。いつも赤いスカートと

下駄をはいている。本名はわからない。

●トン吉

 ジョーの周りで生活するドヤ街の少年の一人。坊主頭とブタ鼻が特徴だ。本名はわか

らない。

●チュー吉

 ジョーの周りで生活するドヤ街の少年の一人。やせた体と出っ歯が特徴だ。本名はわ

からない。

●キノコ

 ジョーの周りで生活するドヤ街の少年の一人。小さな体と大きな鳥打帽が特徴だ。本

名はわからない。

●太郎

 ジョーの周りで生活するドヤ街の少年の一人。子供たちのリーダー役だった。体が大

きく、つぎはぎだらけの学生服が特徴だ。本名はわからない。

●ゴンタ

ジョーの周りで生活するドヤ街の少年の一人。日の丸の付いたシャツを着ている。本名はわからない。

●カーロス=リベラ

ベネズエラ出身バンタム級プロボクサー。 世界ランク6位だが、上位ランカーがその実力に恐れ挑戦を受けたがらないことから無冠の帝王と呼ばれる実力派。陽気な性格で、海外に行った際には現地の下町を訪れ、ギターを弾き子供たちと触れ合うのが大好き。

白木洋子のプロモートで来日したリベラは、エキシビションという形でジョーと試合することになった。激戦を繰り広げるが、試合後半から頭突き肘撃ちなど反則の応酬となりノーコンテスト(アニメ版では引き分け)となる。
 その後、世界チャンピオンホセ・メンドーサに挑戦するが、その試合で強いパンチを受け、パンチドランカーになって廃人同然になってしまう。

★「ジョー」のモデルとなった人はだれだ?

ジョーのモデルとしては、いろいろな名前が上がっている。そのうちのひとりがコメディアンで故人となった「たこ八郎」である。「たこ八郎」は、芸人になる前はプロボクサーであった。ボクサー時代にはフライ級日本チャンピオンにまでのぼりつめ「斎藤清」というリングネームで活躍をしていた。刈り込んだ髪型から「河童の清作」と呼ばれ人気者の選手であった。

たこ八郎」は、少年時代に左眼の視力をなくしたが、それを隠し続けるために、ノーガードポーズをとって相手に打たせ、相手が疲れたところで反撃する戦法をとっていた。この戦い方が矢吹丈のボクシングスタイルと似ているためジョーのモデルと言われはじめた。しかし、打たれ続ける戦いが災いしてパンチドランカーになって引退することになってしまった。

現役を引退した後、「たこ八郎」という芸名で、たこ八郎が、あこがれていたお笑い芸人の由利徹の弟子となってテレビや映画で人気者になった。「たっこでーす!」というとぼけたフレーズで人気者になった。1985(昭和60)年の夏、酔ったまま海に入り事故死した。当時の新聞は「たこ、海で溺死」と報じた。

もう一人のジョーのモデルと考えられるのは、戦前から戦後にかけて活躍した「ピストン堀口」だ。ピストンと称される連打を得意として、ガードもせずに打ち合う姿に原作者の高森朝雄こと梶原一騎は、あこがれていた。

ピストン堀口は、早稲田大学在学中にプロデビューしたインテリであったが、クレバーな試合からほど遠い打ち合いを得意としたことから人気選手であった。ピストン堀口が連打を始めると、観客は「わっしょい!わっしょい!」と声を合わせて応援した。

たこ八郎」と同じようにパンチドランカーで苦しんでいたようだが、現役引退した1950(昭和25)年、列車にひかれて同じように事故死した。

原作者の思い込みからするとピストン堀口の方に軍配が上がるのではないだろうか。

力石徹の死のシーンでのエピソード

大人気だった力石徹は、ジョーと死闘を演じてKOするが、過酷な減量が原因で力石が死んでしまう。その設定を決める時に高森朝雄ちばてつやは、六本木の酒場で酒を飲みながら打ち合わせをした。その時に二人で「殺すか、殺すまいか」「やっぱり殺そう」とヒソヒソと打ち合わせをしているとバーテンダーが青い顔をしてマスターに耳打ちをしたそうだ。

また、熱狂的な「あしたのジョー」のフアンだった劇団「天井桟敷」の主催、寺山修司力石の告別式をおこなった。1970年(昭和45年)3月24日に版元である講談社の講堂で行なわれ、北海道から九州まで700名のフアンが参列した。主題歌を唄った尾藤イサオが熱唱し、僧侶の読経が始まると会場内ですすり泣きの声が聞こえてきたそうだ。

★ジョーは死んでしまったのか?

 あしたのジョーのラストシーンは、「真っ白な灰になった」と表現されているが死んでしまったとは描かれていない。作画を担当したちばてつやは、雑誌のインタビューで、「うつむいて微笑みを浮かべ真っ白になるラストシーンは、ジョーが死んだのとも、生きているとも、どちらでも取れるように描いた」と言っている。

読者の要望によっては、再登場の可能性もあるのかもしれない。しかし、燃え尽きた男の未来に明るい希望があるのか心配だ。